久間章生防衛庁長官は23日夕、長崎市内で講演し、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題に関し、先の沖縄知事選で与党が推薦した仲井真弘多氏が敗北した場合を想定、代替飛行場建設に必要な公有水面の埋め立て権限を県知事から国に移譲するための特別措置法制定を検討していたことを明らかにした。
(時事通信) - 11月23日21時0分更新
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こちらのサイトから転載。
これも無茶なニュースで、
沖縄の人々には一切
選択の余地が無い事を示してます。
そんななんでもかんでも「特措法」で通るなら
「岡村ちゃん特措法」を作って欲しいですよ。
(自由に歌っていて欲しい)

沖縄の人々には一切
選択の余地が無い事を示してます。
そんななんでもかんでも「特措法」で通るなら
「岡村ちゃん特措法」を作って欲しいですよ。
(自由に歌っていて欲しい)
こちらは別サイトから大転載。
先日の琉球行脚の時に垣間見た
「沖縄の抱える困難さ」の一端を、また少し知りました。
↓
普天間に揺れる街--名護市長選
2006年01月12日
●基地 心引き裂いた 和の里二分 図った自殺
米軍普天間飛行場の新たな移設先とされた沖縄県名護市の辺野古崎から大浦湾を挟んで北東に6キロ。嘉陽地区は人口100人余の集落である。 昨年末、地区で小さな食堂が開店した。食事処(どころ)「和」。店主は宮城広さん(62)。三線(さん・しん)をひく首筋に、白く変色した跡が帯状に残る。 5年ほど前、自宅で首つり自殺を図った。間一髪で妻に見つけられたが、しばらくは後遺症で腕が動かず、三線のバチも握れなかった。
かつて、宮城さんは基地受け入れ反対運動の先頭に立っていた。 96年の日米特別行動委員会(SACO)合意を受け、移設先に辺野古沖が浮上した。宮城さんは97年、反対住民でつくる「二見以北十区の会」の初代代表になった。 近くの市役所支所での発足式には、500人以上が集まった。市役所を取り巻く「人間の鎖」を成功させ、東京や大阪にも講演に出向いた。
だが、政府が振興策をちらつかせ始めると、離れていく人が相次いだ。 「何で反対するんだ。(基地が来なければ)あんたがおれの面倒をみるか」 地区で酒を飲んでいて、遠縁の男性にそんな言葉を投げつけられた。狭い集落。親類には土建業者もいる。「考え直せ」という電話もよくかかった。 眠れなくなり、気がついたら外を徘徊(はい・かい)していた。自殺未遂後、1年間入院。 その後、会は解散した。いま、会のプレハブ事務所の跡は草に覆われ、看板だけが残る。
辺野古崎案になると、飛行ルートは嘉陽地区の真上だ。宮城さんは「反対の気持ちは今でも変わらない。でも、運動にかかわり、自分を失いたくない」という。 やっと持てた店を守り育てたい。いまはそれだけだ。市長選にも積極的にかかわる意思はない。
基地移設を受け入れた側にも、心の傷は深い。
移設先を間近に望む辺野古の前区長、嘉陽宗健さん(51)は01年4月、「心配しないで」と妻に書き置きを残し、マイカーで家を出た。すべてから逃げたかった。 フェリーで鹿児島に到着した直後、警官に止められた。家族が捜索を頼んでいた。2カ月入院した。
区長は地域の自治組織の取りまとめ役。嘉陽さんが務めた2年余り、地元は移設に対する賛否のはざまで揺れ続けた。 99年、区の意思決定機関である行政委員会は移設反対を決議。だが翌00年、「移設は望まないが、辺野古に有利になるよう条件整備などを行う必要がある」と、玉虫色ながら条件付き容認に転じた。嘉陽さんは政府が示した国立高専誘致などの振興策に期待し、地権者の説得に当たった。だが、二分された区の状況が胸をさいなんだ。 「容認派、反対派、両方の言い分がよくわかった。毎日あっちこっちから責められ、パニックになった」 失跡先から戻り、振興策でできた国際海洋環境情報センターに嘱託事務員として雇われた。週末は自前のボートで漁に出て、タコやエビを取る。 「モノがない時代は、こうした海の恵みで生きていた」と思う。区には少数ながら、移設反対で座り込むオジイやオバアがいる。基地建設を食い止めている彼らに、感謝したい気持ちもある。市長選でまた地域が割れることには、耐えられない思いがする。
集落により近づいた辺野古崎案には反対だ。だが、政府との交渉が進み、ぎりぎりの判断を迫られればどうか。答えはまだ出せない。
名護親方(な・ぐ・うぇー・かた)の呼び名で民話にも登場する18世紀沖縄の為政者、程順則が中国から伝えた「六諭(りく・ゆ)」の中に「和睦(わ・ぼく)郷里」の一項がある。狭い地域社会で親兄弟、隣近所がいがみ合うことを避ける教えとして語り継がれてきた。市長室にも「六諭」の書がかかる。
だが、基地移設への賛否を問うた97年の市民投票以来、住民は二つに引き裂かれてきた。辺野古崎案という新たな火種を得て、さらなる分裂の予感におののく街で15日、市長選が告示される。
●森挟んで被害と恩恵
昨年暮れ、沖縄県名護市に一館だけ残っていた映画館「名護シアター」が20年の歴史に幕を下ろした。 「客足が落ちて、どうしようもなかった。疲れた」。館主の又吉良全さん(65)はそう言う。 42年前、又吉さんが前身の映画館に映写技師として勤めだした頃の名護は随分違った。4館あった映画館にヤンバル(沖縄本島北部)一円から客が集まった。那覇やコザ(現沖縄市)など中南部に比べれば貧しいが、文化的で落ち着いた雰囲気をたたえた古い街。そんな名護が好きだった。
「今は誰もが国の金を当て込んで、浮足立っている。足元の文化を顧みず、身の丈にあった街づくりを忘れている」 又吉さんが憂慮するのには、訳がある。 館から約300メートル離れた名護十字路を中心に、旧市街地を大規模に再開発する構想が持ち上がっている。原資に見込まれているのは、米軍普天間飛行場の移設と切っても切れない国の北部振興予算だ。00年度からの10年間で総額1千億円を保証された同予算も折り返し点を過ぎ、名護市では「最後の大盤振る舞い」(市職員)への期待が高まっている。市長選でも地域振興は大きなテーマだ。
「商店主の高齢化が進み、販売意欲も減退している。国の補助で再開発を進めてもらえれば、何とかなるはずだ」 名護十字路近くにある食料品卸会社の専務崎浜秀一さん(47)らは昨年6月、再開発に向けた地権者団体を結成した。 一帯の商店街は元々、豚肉や乾物を販売する公設市場を中心に、ヤンバル最大の商業地として戦前から栄えた。だが、15年ほど前から郊外の大型量販店に客が移り、「シャッター通り」と呼ばれるほどさびれ果てた。
「反対してもどうせ基地は押しつけられる。だったら、その代償を街づくりに生かさなければ」 崎浜さんがそう考える背景には、名護市が普天間移設を受け入れて以降の政府の振興予算が、移設先の辺野古区がある市の東海岸側に集中的に投下されてきたことへのいら立ちがある。 名護市は70年、辺野古区を中心とする東海岸側の旧久志村と、西海岸側で都市部の旧名護町など1町4村が合併して誕生した。東西の地区は深い森に隔てられている。 名護十字路に店を構える飲食店のバーテンダーは「基地の話は夕方のテレビで『あ、こんなことがあったんだ』と思うくらい。山一つ隔てただけで、ひとごとになってしまう」と語る。
一方の辺野古区。行政委員の一人は「東と西は文化的にも違うのに合併してしまい、いまや何の基地被害も受けない人たちが恩恵だけを吸い取るようになった」と嘆く。
「日当もらって座ってるんだろ。1日4千円出るって聞いたよ。いい身分さ」
名護市街地を流す50代のタクシー運転手は、基地移設に反対して辺野古の海岸で座り込みを続ける人を指して、そう言った。市長選でも、新たな移設案の是非など関心がない。「どれだけ経済をよくしてくれるかだね」 実際は反対派の座り込みに日当など出ない。だが、「あいつらだって金のため」と思い込むことで、山向こうの新基地を意識の外へ追い出そうとする。基地移設の是非を問うた市民投票からの8年間で深まった傾向だ。
●基地からの自立探る
先月28日、沖縄県名護市数久田(す・く・た)の公民館は千人を超す人で埋まった。作業服姿が目立つ。建設、土木、生コン……。岸本建男市長の後継者として立候補を表明した市議を推す企業の総決起大会。市議は熱弁を振るった。 「(国の)北部振興の継続で、仕事を分かち合える、みんなが少しでも仕事をもらえる状況をつくりたい」 97年に普天間移設を容認して辞任した比嘉鉄也前市長(78)も応援に立ち、「(新しい移設案の受け入れは)今度は1千億円ちょっぴりではできない。那覇空港から名護までモノレールを持ってこい」とぶち上げた。 「ニライカナイ(海のかなた)から福を呼ぶミルク(弥勒)さん」。比嘉前市長は、傍らの市議をそう紹介した。 名護湾では70年代までイルカ猟が盛んだった。イルカはニライカナイの神々からの寄り物(ゆ・い・むん)(贈り物)。基地移設に伴う振興策もまた、「寄り物」に他ならない。 市議を支援する市建設業協会役員は「国が辺野古崎案に変更した今が新たな振興策を取るチャンス。選挙は『移設反対』で乗り切り、後で変えればいい」と屈託がない。
普天間の受け入れ表明以降、市には国の振興策で、情報技術者を育成するマルチメディア館や国立高専などが相次いで建設された。だが、期待したほど土建業界は潤っていないとの指摘もある。 準大手の建設会社役員が打ち明ける。「工事の半分は本土ゼネコンが持っていく。年1件取れればいい方。1件もない業者は下請け、孫請けで食いつなぐしかない」 市の建設関係約200社のうち、一昨年は大手を含む5社、昨年も同じく6社が倒産した。
普天間の新たな移設先となった辺野古崎を望む瀬嵩地区。稲嶺盛良さん(49)は3年前からイノブタ飼育を始めた。山で捕れたリュウキュウイノシシとブタを掛け合わせ、いま15匹。知人の店などに安く譲って試食してもらい、商品化を目指す。「『振興策なしで、どうやって食っていくんだ』という賛成派の問いに、答えを示してやりたい。意地ですよ」 市内の小さな建設会社の重機オペレーターだった。97年、基地移設反対運動に加わった。業界挙げて移設促進に動く中、同年暮れの市民投票の直前に会社を辞めた。 幼い頃から親しんだ山原(ヤン・バル)の自然を収入につなげられないか。仲間と語らい、98年、エコツアー会社「エコネット美(ちゅら)」の設立にもかかわった。20人余のスタッフが、亜熱帯の林の散策やサンゴの海のシュノーケリングなどの「観光」を提供する。修学旅行生らを中心に年間2千〜3千人が訪れるまでになった。 社長の具志堅勇さん(60)の本業は市内有数規模の洋ラン栽培。「山原が息長く自分の足で立って生き残るには、農業や漁業など自然を生かす以外にない」と考える。市長選では、振興策頼みからの転換を投票の基準にするつもりだ。
「農漁業を中心に山原の自立的発展を探る」との考え方は本土復帰翌年の73年、当時の革新市政が市基本構想に盛り込んでいる。開発至上主義に対して地域固有の文化や自然を対置し、別の「豊かさ」を創造する――。そんな哲学に基づく発想だった。
前市長時代、振興策と引き換えに基地との共存を選んだ名護。今回の市長選で、自立への戦略が改めて問われる。